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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和62年(ネ)168号 判決

控訴人 株式会社ラセン商事

右代表者代表取締役 相澤田鶴子

右訴訟代理人弁護士 澤田儀一

同 金川治人

被控訴人 吉田房枝

右訴訟代理人弁護士 浦崎威

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人は控訴人に対し、別紙小切手目録記載の小切手一通を返還せよ。

三  被控訴人の請求(当審における予備的請求を含め)をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は第一・二審とも被控訴人の負担とする。

事実

一  当事者の求めた裁判

1  控訴人

主文と同旨

2  被控訴人

(一)(1)  本件控訴を棄却する。

(2) 控訴費用は控訴人の負担とする。

(二)  原審昭和六〇年(ワ)第二〇七号事件の予備的請求として

控訴人は被控訴人に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年八月二三日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。

二  当事者双方の主張は、次のとおり付加するほかは原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。但し、原判決五枚目裏六行目の「原告代理」の次に「人」を加える。

1  控訴人の主張

(一)  被控訴人の後記売買予約が成立しているとの主張(2、(一)、(1))は争う。

控訴人にとって、本件売買契約締結を確定する要素は、ホテルプラザの一ヶ月平均売上高が一〇〇〇万円を下らないことであったところ、控訴人は、昭和六〇年六月三日別紙小切手目録記載の小切手(以下本件小切手という)を「申込証拠金」として交付した当時、未だ一ヶ月平均売上高が一〇〇〇万円を下らないことの確認はできておらず、右小切手交付後、右売上高の確認作業に入った。

そして、控訴人は、ホテルプラザの顧客の利用状況を調査したところ、一ヶ月の売上高は七五〇万円前後と推定され、到底一〇〇〇万円には達していないものと判断されたので、同月一七日被控訴人に直接面会して説明を受けた。しかし、被控訴人は、業務上の秘密と称して口頭による説明のみで、売上高の業績を示す資料は一切示さなかった。

そのため、控訴人は、一ヶ月平均売上高が一〇〇〇万円を下らないことについて確信が得られず、契約締結に至らなかった。

したがって、売買契約の要素ともいうべき価額の合意が未だなかったのであるから、予約契約は不成立と解さざるを得ない。

(二)  被控訴人の後記本件小切手は手付であるとの主張(2、(一)、(2))は争う。

被控訴人が依頼した不動産仲介業者であるKNB興産株式会社の吉野嘉行は、被控訴人から控訴人が本当に買うか確認して欲しいと依頼を受け、昭和六〇年六月三日控訴人代理人である相澤久範に会い、「買付け証明でも出して貰えませんか」と頼んだところ、久範は、「正式契約は控訴人がするので、今日渡す相澤建設株式会社振出の本件小切手は取立てに出さないで欲しい。同月一一日の正式契約のとき控訴人振出の五〇〇〇万円の小切手と交換するので、それまで保管していて欲しい」と言って、吉野に本件小切手を交付した。

このように、本件小切手は売買交渉の際の「申込証拠金」であり、控訴人が真に買う意思があることを証するための「買付け証明書」であって、手付金とは別異のものである。このことは、甲第一号証の領収書の表示が「申込証拠金」となっていること、被控訴人が右表示を「手付金」に変えて欲しいと希望したものの、固執しなかったことからも明らかであり、更には、一般に手付金の売買価額に対する割合は一〇ないし二〇パーセントであることからすると、一〇〇〇万円の金額が手付金としては著しく低い金額であることからも、明らかである。

(三)  抗弁(錯誤)

仮に本件小切手の交付が売買予約の手付金であるとしても、本件売買予約は次のとおり控訴人の意思表示に要素の錯誤があり無効であり、したがって手付契約も無効である。

(1) 控訴人は、被控訴人からホテルプラザの一ヶ月の平均売上高が一〇〇〇万円を下らないとの説明を受け、これが真実であると信じて売買予約をした。

(2) ホテルプラザに本件売買代金四億六〇〇〇万円の資金投下をした場合、一ヶ月平均売上高が一〇〇〇万円に達しなければ、赤字となり営業継続は困難となる。

控訴人は、買受け後も従前どおりの営業を継続する目的であったから、営業困難が明らかに予測される場合には、買い求める意思は全くなかった。

(3) しかるに同ホテルの一ヶ月の平均売上高は一〇〇〇万円に達していなかった。

(4) よって、控訴人の意思表示には要素である売上高の点について錯誤があった。

(四)  被控訴人の後記再抗弁(2、(三))に対する認否

争う。

(五)  被控訴人の後記当審での予備的請求原因(2、(四)、(五))に対する認否

争う。

2  被控訴人の主張

(一)(1)  売買予約が成立している。

相澤久範は、昭和六〇年五月二四、五日頃、被控訴人提示の代金額四億六五〇〇万円をほぼ了承するに至り、更に同年六月三日には吉野嘉行に対し、右総額のうち五〇〇万円だけ減額するよう話してもらいたいこと、減額の了解が得られれば、本件小切手を被控訴人に渡してもらってよい旨依頼した。そこで、被控訴人は、久範申出のとおり売買代金額を減額することを承諾し、本件小切手を受け取った。右六月三日の時点で、控訴人・被控訴人間に、本件売買代金額を四億六〇〇〇万円とする合意が成立した。即ち同日売買予約が成立した。

その際の久範の「一ヶ月の売上が一〇〇〇万円を割ることになれば、右の売買代金額も更に減額の交渉をしてもらいたい」旨の依頼は、一ヶ月の売上が一〇〇〇万円を割っていることが判明すれば、更に減額交渉してもらいたい旨の希望の表明に過ぎない。

仮に、月一〇〇〇万円の売上があることを久範において確認することが売買本契約の条件であったとしても、久範は、昭和六〇年六月一七日被控訴人から月一〇〇〇万円の売上があるとの説明を受け、これを納得して確認したのであるから、売買本契約の条件は成就し、同時点で予約が成立したことになる。

(2) 手付契約が成立している。

本件小切手は、昭和六〇年六月一一日に控訴人振出の五〇〇〇万円の小切手との差し替えが予定されていたので、控訴人は取立てに出さないで欲しいと頼み、被控訴人もこれを了解した。

しかし、取立てに出さない合意も六月一一日限りのものであり、控訴人が同日までに何らの行動(本契約の締結による差し替え、あるいは本契約締結延期の申し入れ等)も起こさないときは、被控訴人は当然本件小切手を取立てに回すことを予定していた。このように、小切手授受の当事者間で一定期間内に限り取立てをしない約束をしたとき、小切手は、右期間内は人的抗弁の付着したものと解されるが、期間経過後は差し替えなり取立てなりがなされ、その価値を実現していくものであるから、実質的には一個の有価物と解される。したがって、本件小切手の交付により要物性が満たされ、手付契約は有効に成立している。

控訴人は、久範が売買予約契約締結日に、「本件小切手と引換えに控訴人振出の五〇〇〇万円の小切手を渡すから、それまで本件小切手を保管し、取立てに出さないで欲しい」旨述べたことを根拠として、本件小切手が手付金とは別異のものであると主張する。しかし、久範が右のように述べたのは、話し合いが相澤建設社長室で行われていたところ、単なる口頭の約束に不安を覚え、本契約の締結を確実なものとするため、直ちに手付を交付したいと考えた久範が、とりあえず、手元にあった小切手用紙を利用して、相澤建設名義の本件小切手を振出交付したものであるが、元々買主となるのは控訴人であることから、控訴人が本来手付を交付すべきであると考え、控訴人振出の小切手との交換を意図したに過ぎないのである。

控訴人は、本件小切手は「申込証拠金」であり手付金ではないと主張するが、申込証拠金は、特段の事情のない限り、売買予約契約の手付金として交付されるものであり、本件では特段の事情もないので、本件小切手も売買予約契約の手付金と解すべきである。

(二)  控訴人の抗弁(1、(三))に対する認否

控訴人の抗弁事実は争う。

ホテルプラザは当時月一〇〇〇万円以上の売上があり、久範も昭和六〇年六月一七日被控訴人からその説明を受けて納得したものであって、錯誤は存在しない。

仮に錯誤があっても、動機の錯誤であるところ、右動機は表示されていないから、要素の錯誤たりえない。

(三)  再抗弁

仮に要素の錯誤が存在するとしても、久範は、被控訴人の売上高に関する説明をそのまま受け入れて、納得したものであるから、控訴人には重大な過失がある。

(四)  不当利得金返還請求――当審における予備的請求原因その一

被控訴人は、昭和六〇年六月一〇日控訴人から売買本契約の締結日を同月一七日まで延期することを求められ、同日には本契約を締結してもらえると思って、しぶしぶながらこれを了解した。その結果、被控訴人は、右控訴人の本契約締結の延期行為により、本件小切手の支払呈示期間を徒過させられ、小切手金請求権を喪失させられて、控訴人により本件小切手金一〇〇〇万円を奪取されたも同然の状態となった。

控訴人は、同月一七日本件小切手を控訴人振出の小切手と差し替えることを予定し、本件小切手金相当額の支払義務あることを認識していたが、売買本契約締結の引き延ばしにより、本件小切手の支払呈示期間を徒過させ、最後には本契約を締結しないことによって、小切手金債権一〇〇〇万円相当額を利得した。

よって、被控訴人は控訴人に対し、不当利得金一〇〇〇万円、及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和六〇年八月二三日から完済まで商法所定年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(五)  不法行為による損害賠償金請求――当審における予備的請求原因その二

控訴人の代理人相澤久範は、本契約締結の引き延ばしにより本件小切手の支払呈示期間が徒過し、その結果被控訴人が小切手金請求権を喪失するに至ることを認識し、又は認識し得べきであったにも拘らず、これを不注意によって認識せず、本契約締結日を支払呈示期間経過後に引き延ばし、最後は本契約を締結しないことによって、被控訴人に小切手金請求権を喪失させ、本件小切手金一〇〇〇万円相当額の損害を与えた。

控訴人は、その事業の執行のために久範を代理人として使用していた者であり、久範がその事業の執行につき故意又は過失により被控訴人に損害を加えたものであるから、使用者として被控訴人の損害を賠償する義務がある。

よって、被控訴人は控訴人に対し、不法行為による損害賠償金一〇〇〇万円、及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和六〇年八月二三日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

三  証拠関係《省略》

理由

一  控訴人がモーテル経営を業として、控訴人の代理人相澤久範がKNB興産の吉野を介して、被控訴人との間で、本件「ホテルプラザ」の売買交渉にあたり、昭和六〇年六月三日控訴人から被控訴人に対し、本件小切手が交付されたこと、右小切手交付の際、控訴人は、同年六月一一日正式契約するときに、金額五〇〇〇万円の小切手と交換すると約束したこと、その後正式契約日は同年六月一七日に双方合意のうえ延期されたが、正式契約は締結されなかったこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

二  被控訴人は、昭和六〇年六月三日、控訴人と被控訴人間で「ホテルプラザ」につき売買予約が成立したと主張するので判断するに、右契約交渉の経過については、次のとおり付加・訂正するほかは、原判決九枚目表二行目から一七枚目表七行目記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

原判決九枚目表四行目の「甲第一号証、」の次に「第二、第四、第五号証、第八号証の一・二、」を加え、同五行目の「証人」を「原審及び当審証人」と、同七行目の「証人相澤」から同八行目の「除く。)」までを「原審及び当審証人相澤久範の証言」と改める。

同一〇枚目裏六行目の「至った。」の次に「ただ、久範としては、ホテルプラザを四億六〇〇〇万円以上の価額で購入する場合、一ヶ月の平均売上高が一〇〇〇万円あることが損益の分岐点となると考え、売上高に重大な関心を持っていた。」を加える。

同一一枚目裏五行目の「吉野は、」の次に「同年六月初め久範に対し、ホテルプラザの売上状況を記載したメモを渡し、被控訴人はホテルプラザの売上高は右メモに記載されたとおりであり、月額一〇〇〇万円以上あると言っていると説明して、」を加える。

同一二枚目表六行目を「ついて、『買受けの意思を表すための買付け証明でも書いて頂けませんか。』と言って、久範が冷かしではなく、ホテルプラザの取得を本心から希望し、そして買取りのための交渉に入ることを一筆書いて示すようにと求めた。」と改め、同七行目の「書面よりも」の次に「買う意思の確かな証拠として」を、同八行目の「言って、」の次に「控訴人が真実買主になる意思を有して売買交渉に当たることを証明するために、」を加え、同裏四行目の「本件売買契約は、原告が買主として」を「ホテルプラザの売上が月一〇〇〇万円以上あることの確認がとれれば、」と改め、同五行目の「書面で」の次に「本件売買契約を」を、同一三枚目表八行目の「争いがない。)。」の次に「そこで、吉野は、『それなら本件小切手を申込証拠金として預かっておきます。』と言って、久範から本件小切手を買付け証明書に代わるものとして受け取った。」を加える。

同一三枚目裏九行目の「手付として」から同一〇行目の「述べて」までを「『事実上手付として受け取っても良いのですね。』と尋ねたところ、吉野は、これまで申込証拠金として取り扱ったのは本件が初めてであり、申込証拠金の意味ないし法的性質を十分理解していなかったので、被控訴人からの質問に対して否定も肯定もしなかったが、被控訴人は、吉野から」と改め、同一四枚目表三行目の「記載し」の次に「、右申込証拠金の表示を被控訴人に伝えたところ、被控訴人から手付金という表示に変えて欲しいという希望が出されたが、吉野が被控訴人に対して、数日後の正式契約のときに、控訴人振出の五〇〇〇万円の小切手と本件小切手とを交換するということや、ホテルの買主は控訴人であるのに対し、本件小切手の振出人は相澤建設であり、金の性質が違うことを説明して、被控訴人に理解を求めたところ、被控訴人も吉野の説明に納得して、それ以上固執しなかっ」を加え、同三行目の「右記載」から同裏三行目までを削る。

同一五枚目裏四行目の「で検討したい点がある」を「の調査をしているが、月一〇〇〇万円の売上があることの裏付けが取れず、もう少し調査したい」と改める。

同一五行目裏末行目の次に行を改め「(七) 久範は、同年六月三日以降、被控訴人の取引銀行である水橋信用金庫にホテルプラザの売上高を調べてもらい、同ホテルへ来る客の車の台数を調べて、控訴人が経営するホテルボンビバンの売上と対比し、ホテルプラザのシーツのクリーニング状況を調べて、その売上高を推計した結果、同ホテルの一ヶ月平均売上高は、約七~八〇〇万円位しかないとの調査結果が出た。」を加える。

同一六枚目表初行の「しかしながら」を削り、同「一七日」の次に「の朝」を加え、同六行目の「直ちに」を「同日昼頃」と、同九行目の「いろいろ」を「『シーツのクリーニング状況から見ても、月一〇〇〇万円の売上はないように思うが、あるのなら何か裏付けになるものを見せて欲しい。』と被控訴人に尋ねたところ、被控訴人から、『クリーニング屋でシーツの一部を浴衣として処理してもらっている。』」と、同一〇行目の「と被告とは」を「は被控訴人に対し」と、同裏初行の「合意し」を「申し出」と改め、同四行目の「伝えたが、」の次に「控訴人代表者から、『調査結果では浴衣がシーツに変わるだけの数字が出てこない。曖昧な言葉で惑わされてはいけない。』と」を加える。

三1  前認定事実(原判決引用)によると、控訴人と被控訴人間に、本件ホテルプラザに関し、代金四億六〇〇〇万円、本契約日昭和六〇年六月一一日、予約完結権は買主の控訴人のみに帰属する旨の売買予約が成立し、本件小切手一通が控訴人から被控訴人に交付されたと認めるのが相当である。

2  控訴人は、昭和六〇年六月三日当時本件ホテルを総額四億六〇〇〇万円で確定的に買受ける意思は有していなかったと主張するが、売買一方の予約は、当事者の一方に買取権を与え、他方に完結権行使までの間自由に他に売買できない拘束と、完結権が行使されたときは、予約時点で定めた契約内容に従って売買の効果が生ずることを予じめ容認する義務を負わせるものであって、予約時点で、予約権利者(本件では買主、控訴人)に本契約をする意思、換言すれば完結権行使の意思が確定していることが要件となるものではない。むしろ、その時点では買取意思が確定できないため、「予約」しておき、完結権を取得したうえ、買取るかどうかを検討し、買取意思が確定したとき完結権を行使して売買契約を完成させ、買取意思が確立しなかったときは、完結権を行使せず売買を不成立とする、そして、右買取意思確定までの間、他方(売主)をして、その結果を待つ(他に自由に売れない)、即ち拘束性を加えておくというのが売買一方の予約の作用面であると解されるから、控訴人において、売上高が、一〇〇〇万円なければ買わない、或いは代金の減額を再度申込むという意思であったという買主の内心的意図は予約の成立を否定する事情にはならない。控訴人の主張は理由がない。

3  もっとも、前記認定によると、久範は、同月一七日昼頃被控訴人と会い、被控訴人からホテルプラザの売上につき直接説明を受け、一度は月平均一〇〇〇万円以上の売上があることを納得して了解し、当日午後三時に正式に代金四億六〇〇〇万円で本件売買契約を締結する旨申し出ていることが認められ、その時点で本契約が成立(諾成)してしまったかの如くにみえる。しかし、前認定によると、本件当事者は売買契約書の作成を予定していたことが明らかで、しかも、契約内容は複雑なものになることが予想されていたから、右契約書の作成(署名押印)をもって、法律行為の効力発生とする合意があったと認められ、したがって、右時点で予約完結権が行使され、売買契約の効力が生じたと認めることはできない。そして、その後の正式調印の拒否で、本件予約は完結をみないまま、完結権行使期限を徒過したと認めるのが相当である。

四  被控訴人は、本件小切手は前記売買一方の予約の手付金であると主張するので、以下判断する。

1  売買一方の予納は、一方に予約権(買取権)を与え他方に売渡義務(拘束)を与えるものであるから、予約権者から予約義務者に交付される金銭(有価物)は、一般には、予約の手付と解され、予約の成立を証明するだけでなく、予約権者が予約完結権を行使しない場合には、違約とみて予約義務者においてこれを没収するという違約手付の性質を持ったものと認定し、或いは当事者の意思をそのように解釈することも可能である。

2  そこで、本件当事者間において、本件小切手が如何なる意思で授受されたかにつき判断するに、前記認定によると、控訴人は、吉野から買付証明書を要求(手付金を要求されてはいない)されたため、昭和六〇年六月三日被控訴人に対し、控訴人がホテルプラザの営業用財産の取得を本心から希望し、真実買主になる意思を有して売買交渉に当たることを証明するため、買付証明書を一筆書く代わりに本件小切手を預け、ホテルプラザの売上が月一〇〇〇万円以上あることの確認がとれれば、同月一一日に代金四億六〇〇〇万円で売買契約を締結する旨申し出、右契約締結日に、本件小切手と引換えに、手付金として控訴人振出の五〇〇〇万円の小切手を交付するとして、それまで被控訴人に本件小切手の保管方を依頼したに過ぎず、被控訴人も、控訴人の右申し出を承諾し、控訴人から本件小切手をホテルプラザの売買に伴う申込証拠金として預かり、同月一一日正式契約が締結されるまで本件小切手を保管し、取立てに出さないことを約したのであり、本件小切手が現金一〇〇〇万円と同一の経済的価値があるものとして授受された訳ではないことが認められるから、右小切手は金銭又はこれに代る有価物として交付されたものとは認め難く、買取意思を証するための文書ないしは物として授受されたと認定するのが相当であり、したがって、その意味で本件「小切手」は手付とはいえない。

3  被控訴人は、控訴人が同年六月三日被控訴人に対し、売買予約の手付の趣旨で本件小切手を交付したのであり、本件小切手が交付された時点で、一定期間内に限り取立てをしない旨の人的抗弁が付着していたに過ぎず、右期間経過後は当然呈示する積もりであったと主張する。しかし、前記認定のように、控訴人は同日吉野に対し、買受け意思表明の手段としての「誓約書」「証明書」代わりに、本件小切手を被控訴人に預けることを依頼したに過ぎず、控訴人としては、如何なる事態になろうと、本件小切手が取立てに回されることなど考えていなかったのであり、他方、被控訴人も同日、吉野から領収書の表示を申込証拠金としておくと言われ、一度は吉野に手付金という表示に変えて欲しいと希望したものの、それに固執しなかったこと、本契約日六月一一日が六月一七日に延期されても、右小切手は呈示されず、また新たな振出日の小切手も要求・授受されていないことが明らかであるから、被控訴人の前記主張は理由がない。

五  控訴人から被控訴人に対する本件小切手の返還請求について

前記認定によると、控訴人は昭和六〇年六月三日被控訴人に対し、本件売買予約に関し、買付証明書代用の趣旨で本件小切手を預け、かつ予約完結権が行使され、売買契約が成立した時点で他の小切手と交換し返還すると定めたと認められるから、寄託契約(民法六五七条)と認めるのが相当である。

すると、売買契約が成立しなかった場合も同様寄託物に変りないから、被控訴人は控訴人に対し、右小切手の返還義務を負っていると認めるのが相当である。

控訴人の右請求は理由があり、認容すべきである。

六  被控訴人の手付契約に基づく手付金の請求について

1  被控訴人は、控訴人との間に本件売買予約の従たる契約として、手付金一〇〇〇万円を被控訴人に交付する契約が成立したと主張するが、手付契約は、いわゆる要物契約であって、交付されてはじめて手付契約の効力を生ずると解されるから、金銭の授受がないことを前提として、有効に成立した手付契約の履行請求、即ち手付金の交付を請求するのは、主張自体失当である。

2  被控訴人が主張するのが、要物契約としての手付契約でなく、手付契約を成立させるための契約とみるとすれば、本件証拠を検討するも、そのような、手付契約を完成させるための契約が当事者間で成立したとは認められない。

3  被控訴人は、本件小切手はそれ自体有価物であるから、呈示期間を徒過させた控訴人は、右小切手に代る現金一〇〇〇万円を代償物として交付する義務があるかの如き主張をするが、そもそも本件小切手は、買取証明書の代用として授受されたと認められるから、右小切手に代る金銭交付義務は構成できない。被控訴人の手付契約に基づく金員請求は理由がない。

七  被控訴人の不当利得又は損害賠償請求について

被控訴人は、控訴人は、本件売買本契約締結の引き延ばしにより、本件小切手の支払呈示期間を徒過させ、最後には本契約を締結しないことによって、本件小切手金一〇〇〇万円相当額を利得し、被控訴人に本件小切手金請求権を喪失させて、一〇〇〇万円の損害を与えた、と主張する。

しかし、被控訴人の右請求は、被控訴人が控訴人に対し、本件小切手債権一〇〇〇万円を有していたことを前提とするところ、前記認定によると、控訴人は被控訴人に対し、買付証明書の代用として本件小切手を交付したに過ぎず、被控訴人に本件一〇〇〇万円の小切手債権を取得させたとは認められないのであるから、被控訴人の不当利得金返還請求、不法行為による損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

八  結論

してみると控訴人の被控訴人に対する本件小切手返還請求は理由があるが、被控訴人の控訴人に対する手付金、不当利得金、損害賠償金一〇〇〇万円の支払を求める請求はいずれも理由がないので、原判決を取り消し、控訴人の本件小切手返還請求を認容し、被控訴人の一〇〇〇万円の支払を求める請求(当審における予備的請求を含め)をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 井上孝一 裁判官 井垣敏生 紙浦健二)

〈以下省略〉

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